番外編「ショーペンハウアー『読書について』読書会 」議事録

こんにちは、DIALECTIQUE札幌の小林です。

「忘年」というお題目があってもなくても、様々な区切りを意識した会食の機会が増えている今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。先日、私たちDIALECTIQUE札幌の面々も打ち上げと称して持ち寄りパーティーを開きました。頂き物のワインで乾杯!楽しい夕べを過ごしました。

 

この記事では、12/16(月)に開催した、哲学対話カフェ in Sapporo 番外編「ショーペンハウアー『読書について』読書会」の議事録をお届けします。今回は、課題本を一節ずつ音読してその節について簡単に対話し、読了後に自由に対話する、という流れで行いました。繰り返し読んだことがある本でも、ゆっくり音読したり他の方の発言を聞きながら読み直すと、一人で黙読したときとは違った味わいや考えが出てくるもの。ここからは皆さんとの対話の一部を紹介します。

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

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読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。他人の心の運びをなぞっているだけだ。それは生徒が習字のときに、先生が鉛筆で書いてくれたお手本を、あとからペンでなぞるようなものだ。したがって読書していると、ものを考える活動は大部分、棚上げされる。(中略)さらに紙に書き記された思想は、砂地に残された歩行者の足跡以上のものではない。なるほど歩行者がたどった道は見える。だが、歩行者が道すがら何を見たかを知るには、読者が自分の目を用いなければならない。(「読書について」鈴木芳子訳、光文社古典新訳文庫、pp. 139-140)

 

 

他人が書いたものを理解するってどういうことなんだろう。ショーペンハウアーは、自分の頭で理解することを読者に要求しているのか。そうであるならば、単に書かれている文の意味を理解することと、著者が何を見たのかを知ることの間には隔たりがありそう。もちろん読んだ内容を理解することと、自分で考えることには大きな違いがあるが、著者はどちらにおいても読者が思考する意義を認めているようだ。

 

この部分を音読しても、自分は書かれている通りには考えていない。確かに著者のビジョンを辿っているのだけど、彼が見たものを自分も見ている体感はない。そもそも思いついたアイディアを走り書きしたメモと、メモを元に推敲された本があって、私たちは本だけを読んでいる。メモのような危ういフックがあった上で、難しい物事を覚えておくための鍵として本を書いているのだとしたら、本だけを読んでも著者が何を見たかは分からないと思う。 

 

 

・「読書について」との向き合い方

 

通読してみて、この本とどう対峙したらいいのか分からなくなった。メインの主張は「古典を読め」と「他人に考えてもらうのではなく自分で考えろ」の二点。これらの一見相反する主張を「ずっと良質な栄養を摂り続けるのではなく、きちんと消化する、つまり自分の頭で考える時間もバランスよく確保せよ」という推奨として捉えるのは、とても座りよく感じる。でも、その通りに実践したら「おいおい、本の内容を鵜呑みするな」と著者に咎められる気もする。理解した上で実践しようとしていても、実は理解できてないんじゃないか。結局、私たちはこの本の入り口から進んでいないのではないか。

 

ショーペンハウアーが考えていたことを吟味するのも大事だけど、哲学書は本当のことが書いてあると思って読まないといけない。つまり小説を読むように、その本の世界ではそうなっていると思って読まないといけない。書かれていることを信じてこそ、実践する勇気につながると思う。

 

単に前提と結論のつながりを一歩引いた観点からチェックするだけでなく、ある考えから次の考えが出てくること自体を体験する必要もあると。だが、ここに問題の根深さがある。これはまさしく他人に考えてもらっていること。つまり他人の足跡を辿ってそこから景色を眺めること自体が、他人に考えてもらってることになる。他方でもう少し冷静な目線に立つと、著者の景色が見えていることにはならないというジレンマがある。

 

それでいいと思う人もいる。本で読んだことは誰の経験なのか。私の経験なのか、著者の経験なのか分からなくなるまで読んだときに、著者の景色や感情まで分かると同時に、書かれていることが無人称的になるのではないか。

 

 

アフォリズムを読む

 

この本は論文のような形式ではなく、アフォリズムの形で書かれている。文と文のつながりをしっかり見るべきか、著者のサラサラとした足取りに読者も乗っかるべきなのか。

 

論理ではなくオフォリズムで書かれていることが功を奏していると思う。論理重視だと、前に書かれていることが後で否定されることによって話が発展していくが、全体を通して平板に書かれていると、どれが最終的な主張になのか分からない。主張の間をぐるぐる行き来し続けられるというのも大事だと思う。

 

 

・本を読む目的

 

私は、自分のカタルシス的な効果を狙って本を読むことが多い。本の概要を読んで「こういう気持ちになれそうだな」と思って手に取る。他方で、目的なく実用書や専門書を読むこともあるが、著者に言わせればこういった読み方は意味がないのだろう。でも自分の感性に従って読んだ本の方が自分の中に残る気がする。カタルシスの記憶が本の記憶になる。

 

 

・作品や思考への昇華

 

この本の知識を活かして作品を生んだ場合、その作品はこの本の部分的なコピーなのか。たとえば、私がこの本のある部分に感情を動かされて、別の人物の感情として描こうとしたら、それは読書体験を昇華して新しいものを生んだことになるのか。それともコピーに過ぎないのか。

 

生み出された作品の字面だけからは判断できないかもしれないけれど、どこかに分水嶺があるはず。「あれと同じじゃん」と「あれと似てていい!」となるときは何が違うのか。ファッションでも音楽でも傑作が後の時代の作品に埋もれていって、その間の歴史を整理するものは新しい何かを付け加えていると思う。和歌における本歌取りシェイクスピア作品に出てくるモチーフを引き継ぐ作品も肯定的に評価できる。

  

本を読むだけでは著者の景色が見えない。たとえ色々な主張をぐるぐる回ることで著者が見ていた景色が見えてきても、結局本で見知ったことを語るしかないのかもしれない。自分で考えたときに感じる雷鳴、その気持ち良さが持つ中毒性を知っているのに、私たちはその気持ち良さを毎日得ているわけではない。ほとんどの時間は、知っていることを確認しているだけ。あるいは夢の追認したり思い出しているだけにすぎない。

 

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今回の番外編をもって2019年の哲学対話カフェ in Sapproはおしまいです。

今年の夏に始動してから約半年間、たくさんの方に参加いただいたり応援いただきました。ありがとうございました。

来年もより面白い会を開いていこうと運営メンバーそれぞれアイディアを温めています。

ひきつづき哲学対話カフェ in Sapporoをどうぞよろしくお願いします。