第三回「表現の『表現性」を考える」議事録

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おはようございます。DIALECTIQUE札幌の白水です。

気が付けば紅葉のシーズンが終わろうとしています。長い冬がやってきますね。もう少しお出かけしておきたかったと感じるこの頃です。

 

 

今回は、先週行われた第三回哲学対話カフェ in Sapporo「表現の『表現性』を考える」の議事録になります。

今回のイベントは、いつもと違って提題者による解説や論点の整理が初めにあったり、また時間も三時間かけてじっくり話し合ったりと、私たちにとって少しだけ新しい試みとなりました。

長い時間お付き合いいただいた参加者の方々、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。

 

 

長めのイベントだったということもあって、今回も様々な論点が展開されました。

こちらの議事録では、対話のなかで主題的に扱われた論点のいくつかについて、どのような意見が出たのかを論点ごとにまとめています。アルファベットは当日参加してくれた方向け、発言者特定用のシンボルです。あの人こんなこと言ってたな~とか思い出しながら読んでください。

 

 

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表現の根底にあるパトスについて

 

表現の根底にあるのは、とても個人的な気持ちの発露なのではないか。「この表現はこういうことを意味/意図している」というような言い方はあるが、あくまでそれは後付け、その手前にある衝動のようなものが表現の本質なのではないか。Ki

 

コミュニケーションの根底にあるのは相手への働きかけ。この働きかけの以前にこの衝動というようなものがあって、衝動によって生まれてくるのが芸術ではないか。Ki

 

村上隆によると、日本の小説がダメになったのはパトスとかそういうものを大事にするからなのだとか。ちゃんと売れ筋を分析するなどしなければいけない。ここでの村上の発言の趣旨は、パトスに頼って書いてもいいけど、それではお金は稼げないよ、ということ。M

 

やっぱりパトスも何らか社会的なものであって、完全に個人的であることはできないように思われる。N

 

 

表現の意図について

 

表現には必ず意図が伴うものなのか、どうか。Cl

 

「意図」という言葉が多義的である。それは1)作品・表現のメッセージ、2)表現が何であるか、3)意識されなくても伴っているもの、たとえば身体表現で手を挙げる場合の「手を挙げようという意図」というふうに言われるようなもの、このようにいろんな意味がある。Ch

 

私が部屋でひとり変な鼻歌を歌っているのは、何の意図があるのか。そもそもこれは表現なのか。Cl

 

表現者や意図というものなしに、受け手だけが何かを受け取るような状況というのがある。私は虫なんか見ると素晴らしいなぁ~ってなるんですけど、虫は表現してはいないですよね。Ki

 

作品の意図と、愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」のような展覧会の意図と、異なる次元があるよね。N

 

表現者にはなにか、社会をどうしようという、操作しようという意図がある。受け取る側はそういうのはなく、個人的に受け取っている。Ki

 

平田オリザ氏のある日の講演でのお話。「今日は社会問題みたいなものについていろいろと話しましたが、ずっとこういうことを考えていたわけではありません。ただ、私は芸術家ですので、考えるより先に表現してしまう。24年前の戯曲で扱っていたのが、今思えばここで話したような問題だったなぁとは思います。」S

 

 

意図の受け取り/解釈について

 

私は誤解という現象が好きなんですね。M

 

作品に意図がないのだとすれば、誤解されても文句は言えないよね。A

 

ある作品の「ここがすごい」と言われている部分が作者の意図せざるものだったりすることがある。たとえば、Pink Floydのギター。絶妙にズレてて緊張感がある、そのズレは誰にも再現できない、と言われていた。しかし実際は何のことはない、彼はクスリをやっててリズム通りに引けなかっただけなんですね。O

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89

 

論文なんかは、誤解が生じないように、一義的に解釈が決まるように書きますよね。このロジックの世界を想像力で超えていくのが芸術なのではないかと。Ka

 

言葉(ロジック)と表現とのつながりというところに興味があって、現代だとデュシャンの『泉』のようなコンセプチュアル・アートというのがある。意味で理解するからハッとする、この驚きのところが表現。現在主流の表現というのは言葉で狙いを定めるものなのではないか。N

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89_(%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3)

 

 

表現の受け手について

 

愛知の一件でもそうだったが、作品の受け手の側で「何が不快だったか」を説明する責任が免除されているように見える。もっと受け手にも説明を期待してもよいのではないか。Cl

 

表現を通してこういう反応を引き出そうというような意図があったとしても、受け手が文脈を読めなければそういう反応は起こらない。基本的に、勉強していないとアートって理解できない。受け手のリテラシーの問題というのもある。N

 

受け手って誰のこと? Twitterの人たちなんじゃないの。そうだとすると、Twitterの声を社会の声として拡散してしまうメディアのリテラシーの問題もある。A

 

リテラシーが云々」という声が出てくると反発を買うのは、表現を鑑賞するのは個人的な営みだという理解があるからではないか。O

 

「パーキンソンの凡庸法則」というものがある。原子力発電所などの原理が複雑なものについては素人は口を挟まないが、自転車置き場の話題になると屋根の色とかどうでもいいところまで細かく意見を言うようになる、というもの。芸術家は「作品の意図についてもっと考えてほしかった」と言うが、あまり大衆に期待すべきではないのでは。A

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%87%A1%E4%BF%97%E6%B3%95%E5%89%87

 

 

芸術性について

 

芸術をモデルにして表現を考えるのは危険ではある。たとえば、芸術の場合、何をしたいのかという意図を説明するのが難しかったりする。M

 

話題になっている愛知のほうの作品が、美しいかどうかというと、ちょっと違うのではないかと感じる。Ki

まぁ、芸術と美とを一緒にして考えることはかなり前から難しくなってはいますけどね。M

 

の問題というのがある。あるものが表現として受け取られるのは場の影響もある。今回の件も、展覧会という形だったから問題になったという面もあるのではないか。Ka

 

 

表現の〈公〉と〈私〉について

 

公の場で何かを表現として世に出すなら、そこに受け手が想像できる。その点に覚悟を持たないといけないと思う。表現の意図と違う解釈や誤解があっても、そのときに自分の思いを主張することを放棄しなくちゃいけない。作者は誤解や批判を気にしなければよい。A

 

チェロのレッスンで言われたこと。「あなたは自分にとって気持ちのいい音を弾いていますね。あそこにいるお客さんに気持ちのいい音っていうのはこういう音です。これがあそこで気持ちよく響く音だって理解できるようになるまで、黙って通いなさい。」M

 

個人の気持ちの発露は、いつ公的なものにメタモルフォーゼするのか。Cl

 

歌の先生が言っていたこと。「歌って、一応はみんな歌えて、自分はそこそこ上手いと思っているから困る。それをちゃんとした表現になるよう指導するのはなかなか大変。」M

 

 

〈公〉としての表現について

 

全く個人的な表現では、表現者の目的は「遊び」として現れるようなところがある。組織化・社会化されていくにつれて、表現の目的に誤解や遊びの余地が少なくなっていく気がする。N

 

展覧会というのはそもそも企画書がある。これは具体化されていなければいけない。これと遊びの部分とは対比的に見える。遊びの部分が少ないと、「これは不快だ」とか「あれは違う」という声が出てきやすくなるのではないか。「白黒つけなきゃいけない」と「曖昧でもいい」との間のグラデーションと、「遊び」と「公」との間のグラデーションは並行している。O

 

うちの職場は公的な組織なので、上の人間が右と言えば右になります。Y.O.

 

 

政治と税金について

 

表現の自由」の主張には、「こういう表現活動にはお金がつぎ込まれるべきだ」という主張も含まれるのか。O

 

政治活動というのが流行らなくなり、文字情報も読まれなくなったので、次はこのようなアートの場で政治的メッセージを発するようになったということかもしれない。M

 

「政治的」といっても、政治に関係があるというだけのものもあれば、ある特定の政治的主張をするものまである。これらを一括りに「政治的作品」というカテゴリーにしてしまわないほうが良い。S

 

 

「愛知トリエンナーレ」について

 

「表現の不自由展」と銘打ったのは、表現の自由が軽視されているという風潮があるように感じられたからなのだろう、たぶん。O

 

「とりあえず、最後まで企画をやり通す」という事実を形成することが大事だった?N

それならば、「圧力により中止に追い込まれた」という事実のほうが望ましかったのでは?S

 

「表現の不自由展」は展示されなかった作品を、不採用になった理由と一緒に展示してある。その意味でその場自体が一つの表現だと思う。Ka

 

今回は、「ものすごくいい展覧会だった」というような声をあまり聞かなかった。つまり、そういうことじゃないかな。A

 

表現者と政府は、それぞれ相手を権威だと思っているのではないか。政府には権力が、表現者には「表現の自由」や表現の高貴さなどがあるから。N

 

「表現の不自由展」の目的が何だったのか正確には分からないが、表現の自由について議論を巻き起こすということだとすれば大成功だと言える。札幌でこんな会が開かれるくらいになったのだから。O

 

昭和天皇の写真を燃やしたという動画作品について。天皇制に異を唱えることは、少なくとも学術の世界では許容されている。いくつかの小説でもそういうものはある。つまり、みんなそういうことを考えはする。考えはするんだけど、今回はちょっと表現の仕方が過激だったかもしれない。これによって天皇制について何か言いたかったのだとすれば、その意図に反してニュートラルな立場の人たちが天皇制支持に回った可能性はある。M

 

 

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この議事録は、関連するテーマに関心がある人のアイデアを少しでも刺激することができればと思って公開しています。

議論を閉じるよりも開くための意見のほうが多いですが、一つでも心に引っかかって、疑問を開いたままにしてくれるような論点があればうれしい限りです。

 

改めて、ご参加いただいた皆様、どうもありがとうございました!