第四回「環境倫理にできることはまだあるかい 」議事録

こんにちは、DIALECTIQUE札幌の小林です。

前回の更新から季節はぐっと進み、札幌の街並みもすっかり雪化粧しました。今日降った雪はすぐに溶けるのか、もう根雪になってしまうのか、そんなことばかり考えている師走の始まりです。

 

この記事では、2019年11月30日に開催した第四回哲学対話カフェ in Sapporo「環境倫理にできることはまだあるかい ーヒト・自然・生命を考えるー」の模様をお届けします。

今回は新しい試みとして外部からゲストをお招きし、冒頭に今回のテーマについて提題いただきました。

提題者の興野さんは自然科学をバックグラウンドとされる方ですが、環境倫理の文献も踏まえた骨太なプレゼンテーションに一同圧倒されました。

 

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とはいえ、ここは誰でも気軽に対等な立場から発言できる哲学対話カフェ。提題内容を鵜呑みにすることなく、テーマから離れたり戻ったりもっと離れたりしながら、多様な論点について対話が展開されました。ここからは対話のなかで出た意見を紹介します。

 

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人間中心主義・非人間中心主義

 

先日ローマ教皇が東京ドームでミサを執り行ったときに、人間中心主義のキリスト教にあって「地球上の全ての被造物を守るために祈りを」と述べたことに驚いた。被造物には生物だけでなく石ころだって含まれる。提題のマトリクス(下図参照)だと「神の栄光のために」は非人間中心主義にあるが、カトリックも人間中心主義ではマズイと認識して動いている。

 

このような「すべての被造物」解釈はあくまで現教皇の解釈であって、彼のパーソナリティに由来するのではないか。

 

教皇の言葉が「人間と影響関係にない生物の絶滅も防ぐべき」という意味なら、従来の(人間の影響を前提とする)自然保護とは対立するかもしれない。個々の生物ではなく自然システム単位で考えているので。

 

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「神の栄光のために」は人間中心主義ではないか。旧約聖書の創世記では、神が「人間は自然を自由に使ってよい」と言ったことになっているが、キリスト教では人間は善意の管理者、要するに自然を守る執事(steward)であると理解されることが多い。つまり自然を管理する役割を神が人間に与えているとされている。

 

 

非人間中心主義が言っているのは「人間は傲慢である」ということ。その傲慢さを捨てようという主張である。

 

傲慢かどうかは外から見ないと分からない。傲慢さの根本は「借りに寛容、貸しに厳しい」という人間の心理にあるのかもしれない。

 

 

物にはそれ自体として価値があって尊重しなければならないと思う。これは相手に対して私たちが持つ恐れの感覚に由来する。人間が「中に何があるか分からない」と暗闇を恐れるのと同じように、自分とは異質な他者が何らかのアクションをしてくるという前提から倫理が生まれるのではないか。

 

恐れがあるから「触らぬ神に祟りなし」と手付かずのままにするという方向がある一方で、恐れがあるから「怖いものは全部壊しちゃえ」という方向にも進むのではないか。

 

キリスト教に基づいて考えるとマトリクスの右端と左端が円筒状にぐるっとつながって、人間中心主義と非人間中心主義が曖昧な形で融合すると思う。神の意志のもとに人間が動くということになると、神と人間が融合して「俺様、神様」ということになって、そこに間違いは生じないのかという懸念がある。所有者としての責任は、子どもが自分のおもちゃに対して持つ責任の背景におもちゃを与えた母親がいるように、人間の自然に対する責任もそれを与えた神が前提にある。

 

このようなマトリクスにする時点で矛盾が生じてしまうのではないか。功利論と義務論に大別できるのかも疑問。そして功利論と義務論をそれぞれ人間にとっての物質的なものと精神的なものと捉えるなら、結局どちらも人間に関わるものになってしまう。

 

 

なぜ日本人は環境問題に無関心なのか

 

かつては八百万神をあがめていた日本人が環境問題に無関心なのが不思議。日本人が八百万神を捨てた原因には、高度経済成長やバブルがあるかもしれない。でもそれが過去のこととなった今、どうやってアニミズム復権させるか。

 

アニミズムだったからこそ、環境問題への関心が弱いのでは。日本のような自然災害が多い土地にずっと住んでいると、自然災害とともにすべてが消えてしまうように、環境問題への意識も消えてしまうのではないか。この土地に住むことは、自然災害の被害を前提として引き受けること。だから色々なものが流されていく。環境問題は一つのポップなテーマであって、また忘れられて別のものが取り上げられる。私たちは災害を前に呆然とし忘れる文化に生きているのではないか。様々なものに人格・神格を認めるアニミズムは人間中心主義にはなりえない。

 

アニミズムが忘れられた背景には、明治政府の方針や功利論を背景とする当時の啓蒙思想も関係している。

 

上からアニミズムを捨てるよう押し付けられたのではなく、民衆の方がそうすれば得になると思って選んだのではないか。アジア的な人々の中にも、自然を支配するという考えを受け入れやすい素地があったのかもしれない。

 

 

八百万神と言葉・作法

 

「御礼」「御飯」など日常的なものを丁寧に表現する言葉は、八百万の神と関係あるかもしれない。

 

八百万神を信じる心が人間の中にあるというのは怪しいと思う。信じる気持ちを忘れるというよりむしろ、作法とか普段の振る舞いがなくなることが、気持ちがなくなることに相当するのではないか。

 

言葉でいうと「御飯」を「飯(メシ)」と言うようになるように、神が死んでいくのだろうか。

 

 

日本は震災の国で、私たちは色々なものを忘れる。でも忘れていくにあたって葬儀や通過儀礼のように忘れる作法がある。

 

日本には忘れる作法がある一方で忘れない作法も確実にある。たとえば、火葬はやろうと思えば短時間で砂のような状態に焼くこともできるのに、長時間低温でじわじわ焼いて形を残し、残された者に拾わせて死を認識させるという儀礼である。これは死の悲しみを長時間持続させるためのもの。(忘れる/忘れないという)二項対立は、こういう議論ではあまり生産的ではないと思う。

 

忘れないための作法あるいは忘れる作法として、「祀る」という儀礼もある。両者は表裏一体なのかもしれない。

 

 

環境問題と経済活動

 

現実的な問題としてお金に価値を置くと自然がおざなりになる。世界的なハイブランドの中には環境保護活動に力を入れている企業もあるのに、日本の企業からは環境問題やCSRに対する意識があまり感じられない。経済界がそこをきちんと回せば、環境保護活動の資金的な問題も解消されるはず。なぜ大企業がやらないのか。企業が先導すれば人もついてくるのではないか。

 

経済的な競争の世界で、環境にお金を投じた者に何かが返ってこないと大企業が動くのは難しい。

 

 

環境問題はイケてるかどうか、つまりファッションの問題とも関わっている。環境倫理に強い関心を持っている人たちには、環境問題に関心がないのはイケてない、ヴィーガンでないとカッコ悪いという意識があって、彼らのファッションにも反映されている。海外では環境に配慮しない芸能人は売れないし、環境問題に取り組まない企業は評価されないが、そういったことが日本では浸透していない。

 

日本の企業は、CSRのような欧米からの輸入物を外から入ってきた宿題として引き受けている。だからといって日本の企業だけを切り出して動けというのも難しい。

 

環境問題への意識をイケてる/イケてないという評価へ落とし込むのに抵抗感がある。

 

寄付に対する意識の違いもある。たとえば、反捕鯨団体グリーンピースは寄付金で活動しているが、その日本組織に集まる寄付は海外より少ないし、本家のようなロビー活動もできていない。環境を守るアクションを起こすためには寄付も重要なファクター。だけど寄付という概念も、仏教は別にして、日本にないというか輸入物である。こういうメンタリティってどうすれば変わるのだろうか。

 

 

○○人としてのメンタリティ

 

環境意識の問題はメンタリティの話になりがちだが、本当に日本人はメンタリティとして環境への意識が弱いのだろうか。かつて流行った日本人論や一種の本質論として語るのではなく、私たちは何らかの事情でそういう意識を持つよう強いられているのではないかという方向で考えたい。まず個人のメリットと全体のメリットを引き裂くようなジレンマがある。ゴミ捨てのルールのように全体の利益を考えてルールを守った人がバカをみるという図式が、環境問題にも言えそうな状況がある。環境問題への意識は日本人の宿命ではないと思う。

 

「日本人のメンタリティはこうです」と言ってしまうことで、さらに私たちが作られてしまう。予言が現実になってしまうように、「私たちのこれって文化だよね」「私たちはこういう人間だよね」という言葉を使い続けることによって余計に意識が強化されて、本当に言葉通りになっていく。その結果が、「日本人の環境意識は低い」と語られる現状ではないか。

 

日本人は自分のメンタリティを言いたがる。それを作ろうとみんなで共同作業している。

 

米国だと地域によっては国ではなく州ごとのメンタリティを語る傾向がある。国民国家というか人間が作ったものに縋っている人は「私たちはこうだよね」と言いたがるのでは。

 

国民性を語ることに何かメリットがあるのだろうか。どうも日本人論はポジティブではないというか、現実を変えるようなものではない気がする。

 

国民性語りは正常なことだと思う。正常だからこそ、みんなこういう語りをするのではないか。「私たちってこういう人間だよね」というところから共同体意識が持たれ、公共性が生まれる。なぜ日本人が公共性をなくしたのかというと、もともと自生していた江戸時代以前の秩序を全部否定して表面的に西洋の秩序を輸入したけれど、その精神性まで受け入れることはできなかったから。自分を語れないと公共性を持つこともできない。しかし公共性を蘇らせようとして日本人像を考えても、すでに伝統は否定されているから実情に合わないという問題が出てくる。

 

 

文化的なものや地域に固有の問題も重要だが、環境問題は地球規模のグローバルな問題である。文化や地域に固有なところで止まっていると進まない。

 

環境問題はグローバルな問題だから国民国家の枠をとっぱらって語るべき。だけど、そうすると話が大きくなりすぎるので、まずは小さなコミュニティの話から始めて段階を踏んでからグローバルへ、という形にしないと日本では環境問題がイケてるイシューにならないのではないか。

 

 

環境保護と多様性

 

先日北海道知事が苫小牧へのIR誘致を一旦断念したが、その理由に「周辺環境の稀少性」を挙げていた。もし稀少ではなかったらその地域の自然を保護しなくてもよいのか。この点に稀少性や多様性概念の危うさがあって、環境倫理は「別に稀少性が高くない、目の前のここにある自然をどうするか」という問題に答える力を持ってないように思った。

 

私たちは生物多様性や稀少性を与えられた物資として使っている気がする。「稀少からダメ」と言われたらそれ以上反論できないものとして使っている。その地域以外にも棲息している生物の保護について、多様性を抜きにして本気で考えている人はそう多くはないだろう。多様性よりもっと大事なものがあるかもしれないし、個体にもとる評価を考えた上で「あの地域の自然は守るべき」と言わないと多様性についてきちんと主張できないと思う。

 

 

環境倫理にできることはまだあるかい?

 

環境倫理について語っていると、ものすごく徒労感を覚えるときがある。学問としての環境倫理にできることはあるのか。「メダカがいなくなると大変だよね」と言っても若い人にはピンとこないように、年齢によって環境問題に対する意識の差がある。ある調査によれば、環境破壊への危機感が最も強いのは高齢男性。昔の自然を知っている高齢の人は「自然が失われた」と感じる一方で、昔を知らない若い人は危機感を感じにくい。「もう環境は破壊されているよね」という意識があって、手遅れ感が漂っている。環境倫理アジェンダ自体が「環境を守らなきゃ」から「破壊されてしまったけどこれからどうするか、どう反省するか」という風に変わってきている。

 

だからこそ環境倫理にできることはあるのでは。その徒労感がまだ環境倫理の仕事があることの一つのサインではないか。環境倫理は人が滅びるまで続くと思う。

 

近年では反出生主義と呼ばれる思想が出てきていて、「人類の数が増えると環境が壊れるから私たちは子どもを産むべきではない」と真面目に主張する人もいる。この主張に反応する必要はあるのか。

 

環境倫理は「よく滅びていこうね」という思想だと思う。言い換えれば、適当に自然を壊して「まだ滅びたくない」と思いながら滅ぶのはみっともないから、美しく死のうという思想ではないか。子孫を残しませんという立場も、その是非はおいといても、環境倫理的だと思うし、やらなきゃいけないことはあるだろう。

 

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環境倫理にできることはまだあるかい?」

 

この問いをどう受け止め、どう思考を深めるか。参加者それぞれの道筋があって、それがぶつかったり時にはすれ違ったりしながら対話が進む様子が伝われば幸いです。

最後までお読みいただきありがとうございました!