哲学対話で誰も何も感じない場面を考える

はじめに

ある哲学対話で起きた出来事に関して、参加された方が哲学対話に関わる多くの人に応答を求めていたことを受け、私の考えを書きます。

一連の大まかな経過は関係者に周知のものとなっている、あるいは調べれば分かると思われますが、最低限の言及や引用を除いて、全体として抽象的に書きます。また、テーマ選定、当日の状況や事後の経過、加えて安楽死や優生思想を語ることはほぼしていません。それらにコメントしていくことも考えましたが、一番気になる点が別にあるためそこに絞ります(加えて、安全や安心、平等、差別、ヘイト、加害や被害など、便利そうな言葉も使いません)。

 

以下では、

  1. ある哲学対話で語られた「一つの言葉」に注目し
  2. 私の考えを示し
  3. 考えられる対応を提案します。 

 

1. 取りあげる言葉

次の言葉を取りあげます*1

自分が胃ろうを作ったり、センサーと点滴チューブでの延命措置を施されるのであれば、家族に面倒をかけたり、無用に命を延ばすことにリソースを割くのではなく、そのまま自然死を望みたい。

これが、当日なされた発話を正確に再現したものかは問いません。異なる言葉遣いだったという話も聞いています。しかし、より穏当に見えるこちらの言葉でも、なお問題があり得ることを指摘したいので、こちらを取りあげます。

注意書き

その前に一つ注意書きをします。この言葉を検討するにあたって、発言した方のことをなるべく切り離して考えます。例えば、「なぜあの人はあの場でこのような言葉を発したのか」のような問い方をしません。その理由は、一般に語られた言葉は本人の意図と別に他人の評価を受ける公的なものだからであり、また、この話題を当事者ではない「哲学対話」を冠する多くの活動に共通のものとしたいからです*2

言葉と人を切り離すことができるかどうか。それ自体、理屈でも実践でも大きな問題です。そのようなやり方で抜け落ちる部分もあるでしょう。しかし、今回はそれによって少しだけマシになることもあるかもしれません。

 

2. 問題に思うこと

傷の話ではない

さて、上記の言葉に関して私が考えるのは、それは「聞き手が傷を負ったことで問題になるのではない」ということです。これはきちんと伝えないと、関係された方にさらなる傷を負わせてしまう恐れがあるので、順を追って説明します。

今回、上記に類する言葉で傷ついた方がいることを知っています。全くもって問題です。早く傷が癒えるようにと言うのは容易く、薄っぺらく感じますが、まずはそのようにしか言えません。この文章が平穏を乱さぬよう、さらなる傷を負わせぬようにと思いながら書きます*3

しかし、そのように傷を負った方がいるという問題があるとしてもなお、上記の言葉は「傷の問題ではない」。そのように考えます。さらに言えば、それは傷だけでなく、痛み、不快、恐怖など、要するに受け手の気持ちの問題でもありません(同様に誰かの喜びや快感、あるいは共感といった問題でもありません)。

なぜなら、上記の言葉で誰も傷や痛みを感じなくとも、そこになお問題があり得るからです。その点を、私はこの言葉の根幹と思います。別の言い方をすると、この言葉が誰一人傷つけることなく全ての人に受け入れられているとしても、そこにはなお問題が残るのではないか。そのように考えています。

誰も傷ついてなかったとしても

次のように考えます。例えば、世界の全ての人が、「自分が胃ろうやセンサー、点滴チューブで延命措置を受ける場合、家族の迷惑や医療リソースの不足を避けるために、自然死を望みたい」。そのように考えるとしましょう。さらに、そこでは誰一人として傷や痛み、不快も恐怖も感じておらず、実際にそのような理由で(場合によっては喜びさえして)死を迎えていっているとしましょう。

しかしなお、その状況に対して、次のように問うことができるのではないでしょうか。

 

 その世界は何かが間違っている?

 

「何か」とは何でしょう。はっきりと答えられないかもしれません。例えば、家族や社会と自分の死が比較考量されるという点のことかもしれません。あるいは、生と死は誰のものかということかもしれません。それ自体さらに問われるべきですが、少なくとも、起こったとされる問題の「問題」は、傷の有無でなくこちらにあると思っています(実際には、ここに当事者の傷が加わることで重層的な問題になります)。言い換えれば、これは、「誰も傷ついてないからよし」という形で解決できる問題ではないのです。

何を求めているのか

もう少し見てみましょう。「世界の何かが間違っている」という問いは、相反する二つの要求を含むものです。そこには緊張があります。

まず、「家族や医療リソースのために自然死したい」という、元の言葉に対する要求があります。それは、元の言葉にはおかしなところがあるのではないかと、慎重な考慮や返答を求めるものです。言葉を発する「人」に向けられている要求とも言えるでしょう。

もう一つの要求は、「人」ではなく、元の言葉が発せられる「世界そのもの」に向けられるものです。その世界は、「家族や医療リソースのために自然死したい」という言葉に誰も違和感を感じず、それがごく当たり前に発せられる世界です。このとき、「世界の何かが間違っている」という問いは、何かが「言葉にされること」それ自体に向けられています。一つ目の要求が慎重な考慮や返答を求めるものであったのに対し、こちらは言葉が発せられないことを要求します。

このように、「世界の何かが間違っている」という問いは、一方で慎重な考慮と返答を相手に求めながら、他方でそれが世界で安易に発されることを何とか抑えたいという、相反する二つのことを求めています。この問いへの応答もまた、私の考えに従えば、どのような返答をするかを考慮するものであると同時に、そうした対話を行うことそれ自体が果たして正しいかを考慮する、「語ろうとしながら語ることそのものを問う」ものとなるでしょう。

もちろん、「世界の正しさ」とは何か。多義的でよく分かりません。簡単には答えられないでしょう。あるいは、そこで訴えられる「正しさ」こそ、何かが間違っているのではないか。そのような反論もあるでしょう。しかしいずれにせよ、このように見て分かることは、繰り返すように「問題は傷ではない」ということです。誰も傷つかなくとも問題があるかもしれない。そういうことです。

 

3. どのような対応が可能か

傷つけないだけではない

このように考えるとき、その対応は、当然ながら傷に焦点を当てるものではないはずです。元の言葉を語られた方の対応案を読みました(少しだけ特定の個人に言及します)。少なくとも私には、問題が再発しないよう誠実に考えたものに見えました。

しかし、ここまでに見たように、問題は傷がなければよいということではないのです(もちろん傷を負わせないようにすること、傷を負った方のケアは常に問題であり続けます)。求められるのは、誰も傷ついてなくとも、あるいは全員が喜んでいたとしても、なお語られた言葉がどのような含意を持つかを問うことです。また、上記のように語られた問いが何を求めているか、その構造に目を凝らすことです。

とはいえ、そのように慎重になりすぎると、何も言えなくなるのではないか。そう思われるかもしれません。実際、誰もが同様に元の言葉に問題を見出すものではないでしょう。しかし今はあえて、それでいいのかもしれないと答えます。あくまで、対話の中で言葉の重みが失われつつあるのだとしたら、ですが。慎重に考え抜いても、なお自分の言葉に何が潜んでいるか分からない。それ位でちょうどいいのではと思います。その上で語られる言葉であれば、対話のテーブルに載せることができるかもしれません。

見直してみること

最後に具体的な提案をします。哲学対話で広く利用されていると思われるルール、

何を言ってもよい。

を見直すことです。

このルールは、梶谷真司著『考えるとはどういうことか : 0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬舎、2018年)からアレンジしたものとされています*4。梶谷さんはプロの研究者であり、ルールの掲載された著作も公刊されています。なので冒頭の注意書きによらず通常通り批判します。

梶谷さんは、別のルール「人の言う言葉に否定的な態度をとらない」があることによって、「何を言っても良い」とされていても、参加者は守られると考えているようです。しかし、「人の言う言葉に否定的な態度をとらない」では、第一声として語られる、誰に対する応答でもない言葉に対処できないため、問題があると思います。

また、誰も否定されなくとも問題のある言葉というのもあり得ると思います。全員が否定されることなく、喜んでさえいるけど問題がある。そのような場面にも対処できません(そのような発話があることは「対話のルールの外側の話」だ、と反論することは可能だと思います。あるいは、「何が問題であるか」それ自体を対話すべきだという反論もあり得るでしょう。今はこのまま進めます)。

元あった自由と昨今の自由

もちろん、「何を言ってもよい」は、本来は社会的な役割や環境に紐付けられた言葉遣いを離れ、自由な(と当事者に思われる)仕方で対話を可能にするという肯定的な意味合いを持っていたものでしょう。私自身、自分の参加した対話の中で、そのような喜びを聞いたこともあります。しかし、そのように自由を享受していると感じる一方で、参加者は、実際には共通の潜在的な偏見に基づいて発言しているかもしれません。これは、例えば専門のファシリテーターやプロの哲学研究者であっても同様だと思います。対話の場所を設定し、ルールを全員で確認する。一連の流れは重要だと思いますが、それだけでどこか別の世界に行けるわけではないのです。

また、「何を言ってもよい」が、元あった自由に便乗する形で異なるものになり、安易な言葉の選択や使用(今回取りあげた言葉は日常会話でも聞かれるだろうありふれたものに見えます)を促進する。そういうことも考えられます。この点からも、「何を言ってもよい」は、一度見直されることがあっていいように思います。

最後に

とはいえ、私自身は自分の「気をつける」や「ルールを守る」を信用していません。そのため、ルールを変えても本質的な解決には至らないとも思っています。結局は人次第と言えば、身も蓋もないように聞こえるかもしれません。しかし、安易な解決を望まないこともまた重要に思います。「対話」や「話すこと」に肯定的な言葉が多いように見える現状に向けてあえて言えば、その中で少しの「やりづらさ」や「ぎこちなさ」を歓迎する。別の言い方をすれば、どこかに少し「言葉にすることの悪さ」を留めておければ。そのように考えています。

長々と書きながら自明のことしか書いてないようにも、全く的外れのことを書いているようにも思えます。当初呼びかけてくださった方の意に沿うものでもない気もします。その点は申し訳なく思います。ただ、これがまた誰かの応答につながればと思います。

 

追記:これはいわゆる個人の見解というもので、DIALECTIQUE札幌の公式見解ではありません。メンバーとは哲学対話について何度も話したと思いますが、びっくりする位意見が合いません。この文章もシェアして応答を待とうと思います。

 

 DIALECTIQUE札幌 西本

*1:https://twitter.com/id405shioko/status/1387678951418437634?s=20

*2:注意しておくと、私は当日の参加者ではなく、また主催の方の哲学対話に参加したこともありません。そのためそもそも実際の状況を考慮した検討が難しいということもあります。

*3:つけ加えると、一連の投稿を追う中で、他にも関係者で傷を負うことになった方がいると推察されます。しかし、傷を負った方々の中に違いを設けようとするなら、(傷の大きさ比べでもしない限り)結局は傷以外の要素に訴えて判断するしかありません。これが、傷が問題でありながら問題ではないことの、もう一つの理由です。

*4:https://koiana.peatix.com/