哲学対話で誰も何も感じない場面を考える

はじめに

ある哲学対話で起きた出来事に関して、参加された方が哲学対話に関わる多くの人に応答を求めていたことを受け、私の考えを書きます。

一連の大まかな経過は関係者に周知のものとなっている、あるいは調べれば分かると思われますが、最低限の言及や引用を除いて、全体として抽象的に書きます。また、テーマ選定、当日の状況や事後の経過、加えて安楽死や優生思想を語ることはほぼしていません。それらにコメントしていくことも考えましたが、一番気になる点が別にあるためそこに絞ります(加えて、安全や安心、平等、差別、ヘイト、加害や被害など、便利そうな言葉も使いません)。

 

以下では、

  1. ある哲学対話で語られた「一つの言葉」に注目し
  2. 私の考えを示し
  3. 考えられる対応を提案します。 

 

1. 取りあげる言葉

次の言葉を取りあげます*1

自分が胃ろうを作ったり、センサーと点滴チューブでの延命措置を施されるのであれば、家族に面倒をかけたり、無用に命を延ばすことにリソースを割くのではなく、そのまま自然死を望みたい。

これが、当日なされた発話を正確に再現したものかは問いません。異なる言葉遣いだったという話も聞いています。しかし、より穏当に見えるこちらの言葉でも、なお問題があり得ることを指摘したいので、こちらを取りあげます。

注意書き

その前に一つ注意書きをします。この言葉を検討するにあたって、発言した方のことをなるべく切り離して考えます。例えば、「なぜあの人はあの場でこのような言葉を発したのか」のような問い方をしません。その理由は、一般に語られた言葉は本人の意図と別に他人の評価を受ける公的なものだからであり、また、この話題を当事者ではない「哲学対話」を冠する多くの活動に共通のものとしたいからです*2

言葉と人を切り離すことができるかどうか。それ自体、理屈でも実践でも大きな問題です。そのようなやり方で抜け落ちる部分もあるでしょう。しかし、今回はそれによって少しだけマシになることもあるかもしれません。

 

2. 問題に思うこと

傷の話ではない

さて、上記の言葉に関して私が考えるのは、それは「聞き手が傷を負ったことで問題になるのではない」ということです。これはきちんと伝えないと、関係された方にさらなる傷を負わせてしまう恐れがあるので、順を追って説明します。

今回、上記に類する言葉で傷ついた方がいることを知っています。全くもって問題です。早く傷が癒えるようにと言うのは容易く、薄っぺらく感じますが、まずはそのようにしか言えません。この文章が平穏を乱さぬよう、さらなる傷を負わせぬようにと思いながら書きます*3

しかし、そのように傷を負った方がいるという問題があるとしてもなお、上記の言葉は「傷の問題ではない」。そのように考えます。さらに言えば、それは傷だけでなく、痛み、不快、恐怖など、要するに受け手の気持ちの問題でもありません(同様に誰かの喜びや快感、あるいは共感といった問題でもありません)。

なぜなら、上記の言葉で誰も傷や痛みを感じなくとも、そこになお問題があり得るからです。その点を、私はこの言葉の根幹と思います。別の言い方をすると、この言葉が誰一人傷つけることなく全ての人に受け入れられているとしても、そこにはなお問題が残るのではないか。そのように考えています。

誰も傷ついてなかったとしても

次のように考えます。例えば、世界の全ての人が、「自分が胃ろうやセンサー、点滴チューブで延命措置を受ける場合、家族の迷惑や医療リソースの不足を避けるために、自然死を望みたい」。そのように考えるとしましょう。さらに、そこでは誰一人として傷や痛み、不快も恐怖も感じておらず、実際にそのような理由で(場合によっては喜びさえして)死を迎えていっているとしましょう。

しかしなお、その状況に対して、次のように問うことができるのではないでしょうか。

 

 その世界は何かが間違っている?

 

「何か」とは何でしょう。はっきりと答えられないかもしれません。例えば、家族や社会と自分の死が比較考量されるという点のことかもしれません。あるいは、生と死は誰のものかということかもしれません。それ自体さらに問われるべきですが、少なくとも、起こったとされる問題の「問題」は、傷の有無でなくこちらにあると思っています(実際には、ここに当事者の傷が加わることで重層的な問題になります)。言い換えれば、これは、「誰も傷ついてないからよし」という形で解決できる問題ではないのです。

何を求めているのか

もう少し見てみましょう。「世界の何かが間違っている」という問いは、相反する二つの要求を含むものです。そこには緊張があります。

まず、「家族や医療リソースのために自然死したい」という、元の言葉に対する要求があります。それは、元の言葉にはおかしなところがあるのではないかと、慎重な考慮や返答を求めるものです。言葉を発する「人」に向けられている要求とも言えるでしょう。

もう一つの要求は、「人」ではなく、元の言葉が発せられる「世界そのもの」に向けられるものです。その世界は、「家族や医療リソースのために自然死したい」という言葉に誰も違和感を感じず、それがごく当たり前に発せられる世界です。このとき、「世界の何かが間違っている」という問いは、何かが「言葉にされること」それ自体に向けられています。一つ目の要求が慎重な考慮や返答を求めるものであったのに対し、こちらは言葉が発せられないことを要求します。

このように、「世界の何かが間違っている」という問いは、一方で慎重な考慮と返答を相手に求めながら、他方でそれが世界で安易に発されることを何とか抑えたいという、相反する二つのことを求めています。この問いへの応答もまた、私の考えに従えば、どのような返答をするかを考慮するものであると同時に、そうした対話を行うことそれ自体が果たして正しいかを考慮する、「語ろうとしながら語ることそのものを問う」ものとなるでしょう。

もちろん、「世界の正しさ」とは何か。多義的でよく分かりません。簡単には答えられないでしょう。あるいは、そこで訴えられる「正しさ」こそ、何かが間違っているのではないか。そのような反論もあるでしょう。しかしいずれにせよ、このように見て分かることは、繰り返すように「問題は傷ではない」ということです。誰も傷つかなくとも問題があるかもしれない。そういうことです。

 

3. どのような対応が可能か

傷つけないだけではない

このように考えるとき、その対応は、当然ながら傷に焦点を当てるものではないはずです。元の言葉を語られた方の対応案を読みました(少しだけ特定の個人に言及します)。少なくとも私には、問題が再発しないよう誠実に考えたものに見えました。

しかし、ここまでに見たように、問題は傷がなければよいということではないのです(もちろん傷を負わせないようにすること、傷を負った方のケアは常に問題であり続けます)。求められるのは、誰も傷ついてなくとも、あるいは全員が喜んでいたとしても、なお語られた言葉がどのような含意を持つかを問うことです。また、上記のように語られた問いが何を求めているか、その構造に目を凝らすことです。

とはいえ、そのように慎重になりすぎると、何も言えなくなるのではないか。そう思われるかもしれません。実際、誰もが同様に元の言葉に問題を見出すものではないでしょう。しかし今はあえて、それでいいのかもしれないと答えます。あくまで、対話の中で言葉の重みが失われつつあるのだとしたら、ですが。慎重に考え抜いても、なお自分の言葉に何が潜んでいるか分からない。それ位でちょうどいいのではと思います。その上で語られる言葉であれば、対話のテーブルに載せることができるかもしれません。

見直してみること

最後に具体的な提案をします。哲学対話で広く利用されていると思われるルール、

何を言ってもよい。

を見直すことです。

このルールは、梶谷真司著『考えるとはどういうことか : 0歳から100歳までの哲学入門』(幻冬舎、2018年)からアレンジしたものとされています*4。梶谷さんはプロの研究者であり、ルールの掲載された著作も公刊されています。なので冒頭の注意書きによらず通常通り批判します。

梶谷さんは、別のルール「人の言う言葉に否定的な態度をとらない」があることによって、「何を言っても良い」とされていても、参加者は守られると考えているようです。しかし、「人の言う言葉に否定的な態度をとらない」では、第一声として語られる、誰に対する応答でもない言葉に対処できないため、問題があると思います。

また、誰も否定されなくとも問題のある言葉というのもあり得ると思います。全員が否定されることなく、喜んでさえいるけど問題がある。そのような場面にも対処できません(そのような発話があることは「対話のルールの外側の話」だ、と反論することは可能だと思います。あるいは、「何が問題であるか」それ自体を対話すべきだという反論もあり得るでしょう。今はこのまま進めます)。

元あった自由と昨今の自由

もちろん、「何を言ってもよい」は、本来は社会的な役割や環境に紐付けられた言葉遣いを離れ、自由な(と当事者に思われる)仕方で対話を可能にするという肯定的な意味合いを持っていたものでしょう。私自身、自分の参加した対話の中で、そのような喜びを聞いたこともあります。しかし、そのように自由を享受していると感じる一方で、参加者は、実際には共通の潜在的な偏見に基づいて発言しているかもしれません。これは、例えば専門のファシリテーターやプロの哲学研究者であっても同様だと思います。対話の場所を設定し、ルールを全員で確認する。一連の流れは重要だと思いますが、それだけでどこか別の世界に行けるわけではないのです。

また、「何を言ってもよい」が、元あった自由に便乗する形で異なるものになり、安易な言葉の選択や使用(今回取りあげた言葉は日常会話でも聞かれるだろうありふれたものに見えます)を促進する。そういうことも考えられます。この点からも、「何を言ってもよい」は、一度見直されることがあっていいように思います。

最後に

とはいえ、私自身は自分の「気をつける」や「ルールを守る」を信用していません。そのため、ルールを変えても本質的な解決には至らないとも思っています。結局は人次第と言えば、身も蓋もないように聞こえるかもしれません。しかし、安易な解決を望まないこともまた重要に思います。「対話」や「話すこと」に肯定的な言葉が多いように見える現状に向けてあえて言えば、その中で少しの「やりづらさ」や「ぎこちなさ」を歓迎する。別の言い方をすれば、どこかに少し「言葉にすることの悪さ」を留めておければ。そのように考えています。

長々と書きながら自明のことしか書いてないようにも、全く的外れのことを書いているようにも思えます。当初呼びかけてくださった方の意に沿うものでもない気もします。その点は申し訳なく思います。ただ、これがまた誰かの応答につながればと思います。

 

追記:これはいわゆる個人の見解というもので、DIALECTIQUE札幌の公式見解ではありません。メンバーとは哲学対話について何度も話したと思いますが、びっくりする位意見が合いません。この文章もシェアして応答を待とうと思います。

 

 DIALECTIQUE札幌 西本

*1:https://twitter.com/id405shioko/status/1387678951418437634?s=20

*2:注意しておくと、私は当日の参加者ではなく、また主催の方の哲学対話に参加したこともありません。そのためそもそも実際の状況を考慮した検討が難しいということもあります。

*3:つけ加えると、一連の投稿を追う中で、他にも関係者で傷を負うことになった方がいると推察されます。しかし、傷を負った方々の中に違いを設けようとするなら、(傷の大きさ比べでもしない限り)結局は傷以外の要素に訴えて判断するしかありません。これが、傷が問題でありながら問題ではないことの、もう一つの理由です。

*4:https://koiana.peatix.com/ 

第6回「私の考える哲学(3/29)」開催報告

今回のテーマは「私の考える哲学」。

参加者の皆様に本やDVDを持ち寄っていただく形で開催しました。

 

主催者含めた4名の持ち寄った本、DVDはこちら。

 

栗田隆子『ぼそぼそ声のフェミニズム

働く女性の全国センター『対話の土壌をか・も・すワークブック』

出口治明『哲学と宗教』

喜多川泰『喜多川泰の教師塾:指導者がつくるオーケストラ』(DVD)

鈴木良和『バスケットボールの教科書:指導者の哲学と美学』

 向谷地生良『技法以前―べてるの家のつくりかた』

 ニーチェ道徳の系譜

マルクス・ガブリエル『なぜ世界は存在しないのか』

中島義道『哲学の教科書』

 

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ぽかぽか温活カフェハラペコリンコさんの酵素玄米おにぎりをいただきながら、あっという間の三時間。途中から店主のタネダさんも加わって下さり、実生活のことから持ち寄ったお題のことまで、気の向くままにお話しました。

 

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特段の方向づけも整理もありませんでしたが(主催が何もしなかった)、それでも聞きたいことは聞く、考えることは考える。皆様真剣に取り組んでいただけたように思います。

 

私も皆様のお話を聞きながら哲学って何だろなと考え、今も考えているところです。

  

ご参加いただいた3名の皆様、店主のタネダさま、どうもありがとうございました。

 
また通常の哲学カフェと並行して、同様の企画をやりたいと思っております。

 

ご関心ある方ご参加いただければ幸いです。

それではまた。

 

西本

第6回 哲学対話カフェ「私の考える哲学」おしながき

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こんにちはDIALECTIQUE札幌の西本です。

世間は新型コロナウイルスの話題で持ち切りですね。どちらかというと私は、デフォーの『疫病流行記』を思い出すタイプでしょうか。手洗いうがいに早めの検査、気をつけていきましょう。

 

さて、今回は初のカフェ開催!ぽかぽか温活カフェ ハラペコリンコさんにお世話になります。さらに、いつもと違い話題を皆さんで持ち寄ります。

 

どんな感じになるんだろ?と気になる方のために当日の予定を書いておきます。

 

おしながき

  1. 簡単な自己紹介

  2. 持ち寄った話題の紹介と対話
    持ち寄った本や話題を紹介しながら対話します。ビブリオバトルや勉強会ではありません。「効果的に紹介しなきゃ」「正確に要約しなきゃ」とか考えなくても大丈夫。気合はいれずにいきましょう。簡単な感想や印象に残った箇所、これから読んでみたいとかでもOK。話題とテーマを行きつ戻りつしながら進めます。
  3. お昼ご飯
    お昼頃(12:00前位かな)に皆でハラペコリンコさんのおにぎりとスープをいただきます。酵素玄米がモチモチと美味しいです。
  4. 哲学ワーク or 後半戦
    テーマ「私の考える哲学」にちなんだテクストを読み対話します。主催者の方でいくつか用意して皆さんに選んでもらう予定です。あるいは、前半の勢いそのままに後半戦になるかもしれません。

 

こんな感じです。簡単ですね。

持ってくる話題やその他、気になる点は遠慮なくご相談下さい。

大事なことは、哲学を語るにあたって哲学を褒めなくてもいいということ位です。

楽に真面目にいきましょう。

参加申込はこちら

お待ちしております。

 

西本

 

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第5回哲学対話カフェ 開催趣旨

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第5回哲学対話カフェ in Sapporo

「『歎異抄』を誤読する」開催趣旨

 

 

皆さん、こんにちは。

時間が空いてしまいましたが、今年最初の哲学対話カフェを開催いたします。

 

日時 :2月22日(土) 9:30-11:45

場所 :札幌エルプラザ2F 環境研修室2  (札幌市北区北8条西3丁目)

参加費:無料(少額のカンパをお願いしております)

その他:途中入退室は自由です。哲学や仏教の知識は必要ありません。

 

 

◎『歎異抄(たんにしょう)』ってなに??

歎異抄』とは、浄土真宗の開祖・親鸞の口伝を弟子の唯円が書き残した書物です。

 

「密かに愚案を廻らして、粗(ほぼ)古今を勘(かんが)うるに、

先師の口伝の真信に異なることを歎(なげ)き、…」

(ひそかに、愚かな思案をめぐらして、親鸞聖人が御存命であられたころと、

なくなられたのちの今日とを思いくらべてみると、

先師(親鸞聖人)の口ずから伝えられた真実の信心とちがう異端が行われている。

なげかわしいことである。)

 

                  口語訳:早島鑑正

 

 

唯円によるこのような序文から始まります。

「異なる」を「歎く」、ゆえに「歎異抄」。

 

本文は18条の短い説文からなります。

第1条から第10条までは親鸞の法文、第11条から第18条までが「異端」に対する親鸞の言葉を用いた批判、という構造になっています。

 

最も有名な個所は、おそらく第3条のいわゆる「悪人正機」説ではないでしょうか。

「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という部分です。

これ以外にも有名な節や興味深い考えがたくさん登場します。

 

 

◎誤読する

親鸞聖人のお考えはこういうものだ、だからここはこのように理解しなければいけない」というような、「正しく読む」歎異抄もとても面白いと思います。

 

しかし、今回は敢えて「正読」ではなく「誤読」をします。

 

当日は、歎異抄のテキストの一部を読んで、そこから思いついたことや納得がいかない点など、好き勝手に話し合ってみます。

まさに、異端。唯円の歎きは止まりません。

 

たとえば、上に挙げた「悪人正機」論を読むと、「善い人であろうとすることって、本当に善いことなのか?」という疑問が浮かんだり、

「そもそも、悪人や善人になろうとしてなれるものなのか?」などと考えてしまいます。

 

こういった素朴な地点からスタートして、考えを共有したりさらに疑ったりしながら、対話を深めていこうというのが今回の趣旨です。

 

当日は『歎異抄』のなかから2つか3つの章を取り上げます。

どこを取り上げるかは当日のお楽しみです。

 

仏教に興味のある方もない方も、対話が得意な方もそうでもない方も、奮ってご参加ください。ものの見方が少しだけ変わるかもしれません。

ファシリテーターが参加しやすいようにサポートいたします。

 

参加のご予約・お問い合わせは

dialectique.sapporo[at]gmail.comまで!

 

それでは、当日お話しできますことを楽しみにしております。

 

 

番外編「ショーペンハウアー『読書について』読書会 」議事録

こんにちは、DIALECTIQUE札幌の小林です。

「忘年」というお題目があってもなくても、様々な区切りを意識した会食の機会が増えている今日この頃、皆さんいかがお過ごしでしょうか。先日、私たちDIALECTIQUE札幌の面々も打ち上げと称して持ち寄りパーティーを開きました。頂き物のワインで乾杯!楽しい夕べを過ごしました。

 

この記事では、12/16(月)に開催した、哲学対話カフェ in Sapporo 番外編「ショーペンハウアー『読書について』読書会」の議事録をお届けします。今回は、課題本を一節ずつ音読してその節について簡単に対話し、読了後に自由に対話する、という流れで行いました。繰り返し読んだことがある本でも、ゆっくり音読したり他の方の発言を聞きながら読み直すと、一人で黙読したときとは違った味わいや考えが出てくるもの。ここからは皆さんとの対話の一部を紹介します。

読書について (光文社古典新訳文庫)

読書について (光文社古典新訳文庫)

 

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読書するとは、自分でものを考えずに、代わりに他人に考えてもらうことだ。他人の心の運びをなぞっているだけだ。それは生徒が習字のときに、先生が鉛筆で書いてくれたお手本を、あとからペンでなぞるようなものだ。したがって読書していると、ものを考える活動は大部分、棚上げされる。(中略)さらに紙に書き記された思想は、砂地に残された歩行者の足跡以上のものではない。なるほど歩行者がたどった道は見える。だが、歩行者が道すがら何を見たかを知るには、読者が自分の目を用いなければならない。(「読書について」鈴木芳子訳、光文社古典新訳文庫、pp. 139-140)

 

 

他人が書いたものを理解するってどういうことなんだろう。ショーペンハウアーは、自分の頭で理解することを読者に要求しているのか。そうであるならば、単に書かれている文の意味を理解することと、著者が何を見たのかを知ることの間には隔たりがありそう。もちろん読んだ内容を理解することと、自分で考えることには大きな違いがあるが、著者はどちらにおいても読者が思考する意義を認めているようだ。

 

この部分を音読しても、自分は書かれている通りには考えていない。確かに著者のビジョンを辿っているのだけど、彼が見たものを自分も見ている体感はない。そもそも思いついたアイディアを走り書きしたメモと、メモを元に推敲された本があって、私たちは本だけを読んでいる。メモのような危ういフックがあった上で、難しい物事を覚えておくための鍵として本を書いているのだとしたら、本だけを読んでも著者が何を見たかは分からないと思う。 

 

 

・「読書について」との向き合い方

 

通読してみて、この本とどう対峙したらいいのか分からなくなった。メインの主張は「古典を読め」と「他人に考えてもらうのではなく自分で考えろ」の二点。これらの一見相反する主張を「ずっと良質な栄養を摂り続けるのではなく、きちんと消化する、つまり自分の頭で考える時間もバランスよく確保せよ」という推奨として捉えるのは、とても座りよく感じる。でも、その通りに実践したら「おいおい、本の内容を鵜呑みするな」と著者に咎められる気もする。理解した上で実践しようとしていても、実は理解できてないんじゃないか。結局、私たちはこの本の入り口から進んでいないのではないか。

 

ショーペンハウアーが考えていたことを吟味するのも大事だけど、哲学書は本当のことが書いてあると思って読まないといけない。つまり小説を読むように、その本の世界ではそうなっていると思って読まないといけない。書かれていることを信じてこそ、実践する勇気につながると思う。

 

単に前提と結論のつながりを一歩引いた観点からチェックするだけでなく、ある考えから次の考えが出てくること自体を体験する必要もあると。だが、ここに問題の根深さがある。これはまさしく他人に考えてもらっていること。つまり他人の足跡を辿ってそこから景色を眺めること自体が、他人に考えてもらってることになる。他方でもう少し冷静な目線に立つと、著者の景色が見えていることにはならないというジレンマがある。

 

それでいいと思う人もいる。本で読んだことは誰の経験なのか。私の経験なのか、著者の経験なのか分からなくなるまで読んだときに、著者の景色や感情まで分かると同時に、書かれていることが無人称的になるのではないか。

 

 

アフォリズムを読む

 

この本は論文のような形式ではなく、アフォリズムの形で書かれている。文と文のつながりをしっかり見るべきか、著者のサラサラとした足取りに読者も乗っかるべきなのか。

 

論理ではなくオフォリズムで書かれていることが功を奏していると思う。論理重視だと、前に書かれていることが後で否定されることによって話が発展していくが、全体を通して平板に書かれていると、どれが最終的な主張になのか分からない。主張の間をぐるぐる行き来し続けられるというのも大事だと思う。

 

 

・本を読む目的

 

私は、自分のカタルシス的な効果を狙って本を読むことが多い。本の概要を読んで「こういう気持ちになれそうだな」と思って手に取る。他方で、目的なく実用書や専門書を読むこともあるが、著者に言わせればこういった読み方は意味がないのだろう。でも自分の感性に従って読んだ本の方が自分の中に残る気がする。カタルシスの記憶が本の記憶になる。

 

 

・作品や思考への昇華

 

この本の知識を活かして作品を生んだ場合、その作品はこの本の部分的なコピーなのか。たとえば、私がこの本のある部分に感情を動かされて、別の人物の感情として描こうとしたら、それは読書体験を昇華して新しいものを生んだことになるのか。それともコピーに過ぎないのか。

 

生み出された作品の字面だけからは判断できないかもしれないけれど、どこかに分水嶺があるはず。「あれと同じじゃん」と「あれと似てていい!」となるときは何が違うのか。ファッションでも音楽でも傑作が後の時代の作品に埋もれていって、その間の歴史を整理するものは新しい何かを付け加えていると思う。和歌における本歌取りシェイクスピア作品に出てくるモチーフを引き継ぐ作品も肯定的に評価できる。

  

本を読むだけでは著者の景色が見えない。たとえ色々な主張をぐるぐる回ることで著者が見ていた景色が見えてきても、結局本で見知ったことを語るしかないのかもしれない。自分で考えたときに感じる雷鳴、その気持ち良さが持つ中毒性を知っているのに、私たちはその気持ち良さを毎日得ているわけではない。ほとんどの時間は、知っていることを確認しているだけ。あるいは夢の追認したり思い出しているだけにすぎない。

 

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今回の番外編をもって2019年の哲学対話カフェ in Sapproはおしまいです。

今年の夏に始動してから約半年間、たくさんの方に参加いただいたり応援いただきました。ありがとうございました。

来年もより面白い会を開いていこうと運営メンバーそれぞれアイディアを温めています。

ひきつづき哲学対話カフェ in Sapporoをどうぞよろしくお願いします。

第四回「環境倫理にできることはまだあるかい 」議事録

こんにちは、DIALECTIQUE札幌の小林です。

前回の更新から季節はぐっと進み、札幌の街並みもすっかり雪化粧しました。今日降った雪はすぐに溶けるのか、もう根雪になってしまうのか、そんなことばかり考えている師走の始まりです。

 

この記事では、2019年11月30日に開催した第四回哲学対話カフェ in Sapporo「環境倫理にできることはまだあるかい ーヒト・自然・生命を考えるー」の模様をお届けします。

今回は新しい試みとして外部からゲストをお招きし、冒頭に今回のテーマについて提題いただきました。

提題者の興野さんは自然科学をバックグラウンドとされる方ですが、環境倫理の文献も踏まえた骨太なプレゼンテーションに一同圧倒されました。

 

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とはいえ、ここは誰でも気軽に対等な立場から発言できる哲学対話カフェ。提題内容を鵜呑みにすることなく、テーマから離れたり戻ったりもっと離れたりしながら、多様な論点について対話が展開されました。ここからは対話のなかで出た意見を紹介します。

 

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人間中心主義・非人間中心主義

 

先日ローマ教皇が東京ドームでミサを執り行ったときに、人間中心主義のキリスト教にあって「地球上の全ての被造物を守るために祈りを」と述べたことに驚いた。被造物には生物だけでなく石ころだって含まれる。提題のマトリクス(下図参照)だと「神の栄光のために」は非人間中心主義にあるが、カトリックも人間中心主義ではマズイと認識して動いている。

 

このような「すべての被造物」解釈はあくまで現教皇の解釈であって、彼のパーソナリティに由来するのではないか。

 

教皇の言葉が「人間と影響関係にない生物の絶滅も防ぐべき」という意味なら、従来の(人間の影響を前提とする)自然保護とは対立するかもしれない。個々の生物ではなく自然システム単位で考えているので。

 

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「神の栄光のために」は人間中心主義ではないか。旧約聖書の創世記では、神が「人間は自然を自由に使ってよい」と言ったことになっているが、キリスト教では人間は善意の管理者、要するに自然を守る執事(steward)であると理解されることが多い。つまり自然を管理する役割を神が人間に与えているとされている。

 

 

非人間中心主義が言っているのは「人間は傲慢である」ということ。その傲慢さを捨てようという主張である。

 

傲慢かどうかは外から見ないと分からない。傲慢さの根本は「借りに寛容、貸しに厳しい」という人間の心理にあるのかもしれない。

 

 

物にはそれ自体として価値があって尊重しなければならないと思う。これは相手に対して私たちが持つ恐れの感覚に由来する。人間が「中に何があるか分からない」と暗闇を恐れるのと同じように、自分とは異質な他者が何らかのアクションをしてくるという前提から倫理が生まれるのではないか。

 

恐れがあるから「触らぬ神に祟りなし」と手付かずのままにするという方向がある一方で、恐れがあるから「怖いものは全部壊しちゃえ」という方向にも進むのではないか。

 

キリスト教に基づいて考えるとマトリクスの右端と左端が円筒状にぐるっとつながって、人間中心主義と非人間中心主義が曖昧な形で融合すると思う。神の意志のもとに人間が動くということになると、神と人間が融合して「俺様、神様」ということになって、そこに間違いは生じないのかという懸念がある。所有者としての責任は、子どもが自分のおもちゃに対して持つ責任の背景におもちゃを与えた母親がいるように、人間の自然に対する責任もそれを与えた神が前提にある。

 

このようなマトリクスにする時点で矛盾が生じてしまうのではないか。功利論と義務論に大別できるのかも疑問。そして功利論と義務論をそれぞれ人間にとっての物質的なものと精神的なものと捉えるなら、結局どちらも人間に関わるものになってしまう。

 

 

なぜ日本人は環境問題に無関心なのか

 

かつては八百万神をあがめていた日本人が環境問題に無関心なのが不思議。日本人が八百万神を捨てた原因には、高度経済成長やバブルがあるかもしれない。でもそれが過去のこととなった今、どうやってアニミズム復権させるか。

 

アニミズムだったからこそ、環境問題への関心が弱いのでは。日本のような自然災害が多い土地にずっと住んでいると、自然災害とともにすべてが消えてしまうように、環境問題への意識も消えてしまうのではないか。この土地に住むことは、自然災害の被害を前提として引き受けること。だから色々なものが流されていく。環境問題は一つのポップなテーマであって、また忘れられて別のものが取り上げられる。私たちは災害を前に呆然とし忘れる文化に生きているのではないか。様々なものに人格・神格を認めるアニミズムは人間中心主義にはなりえない。

 

アニミズムが忘れられた背景には、明治政府の方針や功利論を背景とする当時の啓蒙思想も関係している。

 

上からアニミズムを捨てるよう押し付けられたのではなく、民衆の方がそうすれば得になると思って選んだのではないか。アジア的な人々の中にも、自然を支配するという考えを受け入れやすい素地があったのかもしれない。

 

 

八百万神と言葉・作法

 

「御礼」「御飯」など日常的なものを丁寧に表現する言葉は、八百万の神と関係あるかもしれない。

 

八百万神を信じる心が人間の中にあるというのは怪しいと思う。信じる気持ちを忘れるというよりむしろ、作法とか普段の振る舞いがなくなることが、気持ちがなくなることに相当するのではないか。

 

言葉でいうと「御飯」を「飯(メシ)」と言うようになるように、神が死んでいくのだろうか。

 

 

日本は震災の国で、私たちは色々なものを忘れる。でも忘れていくにあたって葬儀や通過儀礼のように忘れる作法がある。

 

日本には忘れる作法がある一方で忘れない作法も確実にある。たとえば、火葬はやろうと思えば短時間で砂のような状態に焼くこともできるのに、長時間低温でじわじわ焼いて形を残し、残された者に拾わせて死を認識させるという儀礼である。これは死の悲しみを長時間持続させるためのもの。(忘れる/忘れないという)二項対立は、こういう議論ではあまり生産的ではないと思う。

 

忘れないための作法あるいは忘れる作法として、「祀る」という儀礼もある。両者は表裏一体なのかもしれない。

 

 

環境問題と経済活動

 

現実的な問題としてお金に価値を置くと自然がおざなりになる。世界的なハイブランドの中には環境保護活動に力を入れている企業もあるのに、日本の企業からは環境問題やCSRに対する意識があまり感じられない。経済界がそこをきちんと回せば、環境保護活動の資金的な問題も解消されるはず。なぜ大企業がやらないのか。企業が先導すれば人もついてくるのではないか。

 

経済的な競争の世界で、環境にお金を投じた者に何かが返ってこないと大企業が動くのは難しい。

 

 

環境問題はイケてるかどうか、つまりファッションの問題とも関わっている。環境倫理に強い関心を持っている人たちには、環境問題に関心がないのはイケてない、ヴィーガンでないとカッコ悪いという意識があって、彼らのファッションにも反映されている。海外では環境に配慮しない芸能人は売れないし、環境問題に取り組まない企業は評価されないが、そういったことが日本では浸透していない。

 

日本の企業は、CSRのような欧米からの輸入物を外から入ってきた宿題として引き受けている。だからといって日本の企業だけを切り出して動けというのも難しい。

 

環境問題への意識をイケてる/イケてないという評価へ落とし込むのに抵抗感がある。

 

寄付に対する意識の違いもある。たとえば、反捕鯨団体グリーンピースは寄付金で活動しているが、その日本組織に集まる寄付は海外より少ないし、本家のようなロビー活動もできていない。環境を守るアクションを起こすためには寄付も重要なファクター。だけど寄付という概念も、仏教は別にして、日本にないというか輸入物である。こういうメンタリティってどうすれば変わるのだろうか。

 

 

○○人としてのメンタリティ

 

環境意識の問題はメンタリティの話になりがちだが、本当に日本人はメンタリティとして環境への意識が弱いのだろうか。かつて流行った日本人論や一種の本質論として語るのではなく、私たちは何らかの事情でそういう意識を持つよう強いられているのではないかという方向で考えたい。まず個人のメリットと全体のメリットを引き裂くようなジレンマがある。ゴミ捨てのルールのように全体の利益を考えてルールを守った人がバカをみるという図式が、環境問題にも言えそうな状況がある。環境問題への意識は日本人の宿命ではないと思う。

 

「日本人のメンタリティはこうです」と言ってしまうことで、さらに私たちが作られてしまう。予言が現実になってしまうように、「私たちのこれって文化だよね」「私たちはこういう人間だよね」という言葉を使い続けることによって余計に意識が強化されて、本当に言葉通りになっていく。その結果が、「日本人の環境意識は低い」と語られる現状ではないか。

 

日本人は自分のメンタリティを言いたがる。それを作ろうとみんなで共同作業している。

 

米国だと地域によっては国ではなく州ごとのメンタリティを語る傾向がある。国民国家というか人間が作ったものに縋っている人は「私たちはこうだよね」と言いたがるのでは。

 

国民性を語ることに何かメリットがあるのだろうか。どうも日本人論はポジティブではないというか、現実を変えるようなものではない気がする。

 

国民性語りは正常なことだと思う。正常だからこそ、みんなこういう語りをするのではないか。「私たちってこういう人間だよね」というところから共同体意識が持たれ、公共性が生まれる。なぜ日本人が公共性をなくしたのかというと、もともと自生していた江戸時代以前の秩序を全部否定して表面的に西洋の秩序を輸入したけれど、その精神性まで受け入れることはできなかったから。自分を語れないと公共性を持つこともできない。しかし公共性を蘇らせようとして日本人像を考えても、すでに伝統は否定されているから実情に合わないという問題が出てくる。

 

 

文化的なものや地域に固有の問題も重要だが、環境問題は地球規模のグローバルな問題である。文化や地域に固有なところで止まっていると進まない。

 

環境問題はグローバルな問題だから国民国家の枠をとっぱらって語るべき。だけど、そうすると話が大きくなりすぎるので、まずは小さなコミュニティの話から始めて段階を踏んでからグローバルへ、という形にしないと日本では環境問題がイケてるイシューにならないのではないか。

 

 

環境保護と多様性

 

先日北海道知事が苫小牧へのIR誘致を一旦断念したが、その理由に「周辺環境の稀少性」を挙げていた。もし稀少ではなかったらその地域の自然を保護しなくてもよいのか。この点に稀少性や多様性概念の危うさがあって、環境倫理は「別に稀少性が高くない、目の前のここにある自然をどうするか」という問題に答える力を持ってないように思った。

 

私たちは生物多様性や稀少性を与えられた物資として使っている気がする。「稀少からダメ」と言われたらそれ以上反論できないものとして使っている。その地域以外にも棲息している生物の保護について、多様性を抜きにして本気で考えている人はそう多くはないだろう。多様性よりもっと大事なものがあるかもしれないし、個体にもとる評価を考えた上で「あの地域の自然は守るべき」と言わないと多様性についてきちんと主張できないと思う。

 

 

環境倫理にできることはまだあるかい?

 

環境倫理について語っていると、ものすごく徒労感を覚えるときがある。学問としての環境倫理にできることはあるのか。「メダカがいなくなると大変だよね」と言っても若い人にはピンとこないように、年齢によって環境問題に対する意識の差がある。ある調査によれば、環境破壊への危機感が最も強いのは高齢男性。昔の自然を知っている高齢の人は「自然が失われた」と感じる一方で、昔を知らない若い人は危機感を感じにくい。「もう環境は破壊されているよね」という意識があって、手遅れ感が漂っている。環境倫理アジェンダ自体が「環境を守らなきゃ」から「破壊されてしまったけどこれからどうするか、どう反省するか」という風に変わってきている。

 

だからこそ環境倫理にできることはあるのでは。その徒労感がまだ環境倫理の仕事があることの一つのサインではないか。環境倫理は人が滅びるまで続くと思う。

 

近年では反出生主義と呼ばれる思想が出てきていて、「人類の数が増えると環境が壊れるから私たちは子どもを産むべきではない」と真面目に主張する人もいる。この主張に反応する必要はあるのか。

 

環境倫理は「よく滅びていこうね」という思想だと思う。言い換えれば、適当に自然を壊して「まだ滅びたくない」と思いながら滅ぶのはみっともないから、美しく死のうという思想ではないか。子孫を残しませんという立場も、その是非はおいといても、環境倫理的だと思うし、やらなきゃいけないことはあるだろう。

 

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環境倫理にできることはまだあるかい?」

 

この問いをどう受け止め、どう思考を深めるか。参加者それぞれの道筋があって、それがぶつかったり時にはすれ違ったりしながら対話が進む様子が伝われば幸いです。

最後までお読みいただきありがとうございました!

第三回「表現の『表現性」を考える」議事録

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おはようございます。DIALECTIQUE札幌の白水です。

気が付けば紅葉のシーズンが終わろうとしています。長い冬がやってきますね。もう少しお出かけしておきたかったと感じるこの頃です。

 

 

今回は、先週行われた第三回哲学対話カフェ in Sapporo「表現の『表現性』を考える」の議事録になります。

今回のイベントは、いつもと違って提題者による解説や論点の整理が初めにあったり、また時間も三時間かけてじっくり話し合ったりと、私たちにとって少しだけ新しい試みとなりました。

長い時間お付き合いいただいた参加者の方々、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。

 

 

長めのイベントだったということもあって、今回も様々な論点が展開されました。

こちらの議事録では、対話のなかで主題的に扱われた論点のいくつかについて、どのような意見が出たのかを論点ごとにまとめています。アルファベットは当日参加してくれた方向け、発言者特定用のシンボルです。あの人こんなこと言ってたな~とか思い出しながら読んでください。

 

 

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表現の根底にあるパトスについて

 

表現の根底にあるのは、とても個人的な気持ちの発露なのではないか。「この表現はこういうことを意味/意図している」というような言い方はあるが、あくまでそれは後付け、その手前にある衝動のようなものが表現の本質なのではないか。Ki

 

コミュニケーションの根底にあるのは相手への働きかけ。この働きかけの以前にこの衝動というようなものがあって、衝動によって生まれてくるのが芸術ではないか。Ki

 

村上隆によると、日本の小説がダメになったのはパトスとかそういうものを大事にするからなのだとか。ちゃんと売れ筋を分析するなどしなければいけない。ここでの村上の発言の趣旨は、パトスに頼って書いてもいいけど、それではお金は稼げないよ、ということ。M

 

やっぱりパトスも何らか社会的なものであって、完全に個人的であることはできないように思われる。N

 

 

表現の意図について

 

表現には必ず意図が伴うものなのか、どうか。Cl

 

「意図」という言葉が多義的である。それは1)作品・表現のメッセージ、2)表現が何であるか、3)意識されなくても伴っているもの、たとえば身体表現で手を挙げる場合の「手を挙げようという意図」というふうに言われるようなもの、このようにいろんな意味がある。Ch

 

私が部屋でひとり変な鼻歌を歌っているのは、何の意図があるのか。そもそもこれは表現なのか。Cl

 

表現者や意図というものなしに、受け手だけが何かを受け取るような状況というのがある。私は虫なんか見ると素晴らしいなぁ~ってなるんですけど、虫は表現してはいないですよね。Ki

 

作品の意図と、愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」のような展覧会の意図と、異なる次元があるよね。N

 

表現者にはなにか、社会をどうしようという、操作しようという意図がある。受け取る側はそういうのはなく、個人的に受け取っている。Ki

 

平田オリザ氏のある日の講演でのお話。「今日は社会問題みたいなものについていろいろと話しましたが、ずっとこういうことを考えていたわけではありません。ただ、私は芸術家ですので、考えるより先に表現してしまう。24年前の戯曲で扱っていたのが、今思えばここで話したような問題だったなぁとは思います。」S

 

 

意図の受け取り/解釈について

 

私は誤解という現象が好きなんですね。M

 

作品に意図がないのだとすれば、誤解されても文句は言えないよね。A

 

ある作品の「ここがすごい」と言われている部分が作者の意図せざるものだったりすることがある。たとえば、Pink Floydのギター。絶妙にズレてて緊張感がある、そのズレは誰にも再現できない、と言われていた。しかし実際は何のことはない、彼はクスリをやっててリズム通りに引けなかっただけなんですね。O

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%A4%E3%83%89

 

論文なんかは、誤解が生じないように、一義的に解釈が決まるように書きますよね。このロジックの世界を想像力で超えていくのが芸術なのではないかと。Ka

 

言葉(ロジック)と表現とのつながりというところに興味があって、現代だとデュシャンの『泉』のようなコンセプチュアル・アートというのがある。意味で理解するからハッとする、この驚きのところが表現。現在主流の表現というのは言葉で狙いを定めるものなのではないか。N

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%89_(%E3%83%87%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%B3)

 

 

表現の受け手について

 

愛知の一件でもそうだったが、作品の受け手の側で「何が不快だったか」を説明する責任が免除されているように見える。もっと受け手にも説明を期待してもよいのではないか。Cl

 

表現を通してこういう反応を引き出そうというような意図があったとしても、受け手が文脈を読めなければそういう反応は起こらない。基本的に、勉強していないとアートって理解できない。受け手のリテラシーの問題というのもある。N

 

受け手って誰のこと? Twitterの人たちなんじゃないの。そうだとすると、Twitterの声を社会の声として拡散してしまうメディアのリテラシーの問題もある。A

 

リテラシーが云々」という声が出てくると反発を買うのは、表現を鑑賞するのは個人的な営みだという理解があるからではないか。O

 

「パーキンソンの凡庸法則」というものがある。原子力発電所などの原理が複雑なものについては素人は口を挟まないが、自転車置き場の話題になると屋根の色とかどうでもいいところまで細かく意見を言うようになる、というもの。芸術家は「作品の意図についてもっと考えてほしかった」と言うが、あまり大衆に期待すべきではないのでは。A

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%87%A1%E4%BF%97%E6%B3%95%E5%89%87

 

 

芸術性について

 

芸術をモデルにして表現を考えるのは危険ではある。たとえば、芸術の場合、何をしたいのかという意図を説明するのが難しかったりする。M

 

話題になっている愛知のほうの作品が、美しいかどうかというと、ちょっと違うのではないかと感じる。Ki

まぁ、芸術と美とを一緒にして考えることはかなり前から難しくなってはいますけどね。M

 

の問題というのがある。あるものが表現として受け取られるのは場の影響もある。今回の件も、展覧会という形だったから問題になったという面もあるのではないか。Ka

 

 

表現の〈公〉と〈私〉について

 

公の場で何かを表現として世に出すなら、そこに受け手が想像できる。その点に覚悟を持たないといけないと思う。表現の意図と違う解釈や誤解があっても、そのときに自分の思いを主張することを放棄しなくちゃいけない。作者は誤解や批判を気にしなければよい。A

 

チェロのレッスンで言われたこと。「あなたは自分にとって気持ちのいい音を弾いていますね。あそこにいるお客さんに気持ちのいい音っていうのはこういう音です。これがあそこで気持ちよく響く音だって理解できるようになるまで、黙って通いなさい。」M

 

個人の気持ちの発露は、いつ公的なものにメタモルフォーゼするのか。Cl

 

歌の先生が言っていたこと。「歌って、一応はみんな歌えて、自分はそこそこ上手いと思っているから困る。それをちゃんとした表現になるよう指導するのはなかなか大変。」M

 

 

〈公〉としての表現について

 

全く個人的な表現では、表現者の目的は「遊び」として現れるようなところがある。組織化・社会化されていくにつれて、表現の目的に誤解や遊びの余地が少なくなっていく気がする。N

 

展覧会というのはそもそも企画書がある。これは具体化されていなければいけない。これと遊びの部分とは対比的に見える。遊びの部分が少ないと、「これは不快だ」とか「あれは違う」という声が出てきやすくなるのではないか。「白黒つけなきゃいけない」と「曖昧でもいい」との間のグラデーションと、「遊び」と「公」との間のグラデーションは並行している。O

 

うちの職場は公的な組織なので、上の人間が右と言えば右になります。Y.O.

 

 

政治と税金について

 

表現の自由」の主張には、「こういう表現活動にはお金がつぎ込まれるべきだ」という主張も含まれるのか。O

 

政治活動というのが流行らなくなり、文字情報も読まれなくなったので、次はこのようなアートの場で政治的メッセージを発するようになったということかもしれない。M

 

「政治的」といっても、政治に関係があるというだけのものもあれば、ある特定の政治的主張をするものまである。これらを一括りに「政治的作品」というカテゴリーにしてしまわないほうが良い。S

 

 

「愛知トリエンナーレ」について

 

「表現の不自由展」と銘打ったのは、表現の自由が軽視されているという風潮があるように感じられたからなのだろう、たぶん。O

 

「とりあえず、最後まで企画をやり通す」という事実を形成することが大事だった?N

それならば、「圧力により中止に追い込まれた」という事実のほうが望ましかったのでは?S

 

「表現の不自由展」は展示されなかった作品を、不採用になった理由と一緒に展示してある。その意味でその場自体が一つの表現だと思う。Ka

 

今回は、「ものすごくいい展覧会だった」というような声をあまり聞かなかった。つまり、そういうことじゃないかな。A

 

表現者と政府は、それぞれ相手を権威だと思っているのではないか。政府には権力が、表現者には「表現の自由」や表現の高貴さなどがあるから。N

 

「表現の不自由展」の目的が何だったのか正確には分からないが、表現の自由について議論を巻き起こすということだとすれば大成功だと言える。札幌でこんな会が開かれるくらいになったのだから。O

 

昭和天皇の写真を燃やしたという動画作品について。天皇制に異を唱えることは、少なくとも学術の世界では許容されている。いくつかの小説でもそういうものはある。つまり、みんなそういうことを考えはする。考えはするんだけど、今回はちょっと表現の仕方が過激だったかもしれない。これによって天皇制について何か言いたかったのだとすれば、その意図に反してニュートラルな立場の人たちが天皇制支持に回った可能性はある。M

 

 

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この議事録は、関連するテーマに関心がある人のアイデアを少しでも刺激することができればと思って公開しています。

議論を閉じるよりも開くための意見のほうが多いですが、一つでも心に引っかかって、疑問を開いたままにしてくれるような論点があればうれしい限りです。

 

改めて、ご参加いただいた皆様、どうもありがとうございました!