第三回哲学対話カフェ「表現の『表現性』を考える」告知!!

 

f:id:DIALECTIQUE:20190929211531j:plain

こんにちは。

過ごしやすくて気持ちのいい日が続いていますね。

 

もはや、この気持ちのよさを表現するのに言葉はいらないような、ただそこにいればそれだけでいいような、そんな季節です。

 

そんな季節ですから、私たちは、言葉を失ってしまわないよう、

哲学対話カフェをしましょう!!

 

お待たせしました!第三回「哲学対話カフェ in Sapporo」

「表現の『表現性』を考える」の告知です!!

 

 

***************************

 

昨今、色々な場面で「表現の自由」が話題になっています。

愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」の展示中止や補助金の交付中止、選挙演説に対するヤジ、またヘイトスピーチの是非など、表現の自由のあり方は様々な場面、様式で議論されています。

しかしこれらの問題は、事柄の大きさや問題の緊急性も相まって、主として表現と政治の関わりに焦点が集まる一方で、「人間が表現するとはどういうことか」、「人間にとって表現とは何か」のような、「表現の表現性」ともいえる点について、じっくりと議論される状況にないように思えます。

そこで、今回の哲学対話カフェでは、「表現の自由」を直接論じる前に一度立ち止まり、「表現の『表現性』」とは何か、対話を通して考えることを試みます。

人間の「表現」は哲学の伝統的主題の一つですが、専門知識や事前の予習は必要ありません。

自ら表現活動に従事する方、鑑賞するのが好きな方、素朴な出発点から「表現の自由」を考えてみたい方、、、

さまざまな背景や関心を持つ人たちで集まり、一緒にこの問題を考えてみませんか?

 

**************************

 

皆様のご参加、心よりお待ちしています。

 

f:id:DIALECTIQUE:20190929211601j:plain

 

 

 

 

第二回「人生変わる、ってどういうこと?」議事録

 

 

 

こんにちは。

DIALECTIQUE札幌の白水(めんめん)です。

第二回哲学対話カフェin Sapporo「人生変わる、ってどういうこと?」にご参加いただいた皆様、日曜日の朝からお時間を頂きありがとうございました。様々な意見がさも当然のように出てくる様子は、一人で考えるのとはまた違った楽しみだなぁと思いました。意見の多様さに対して、どれかの考えに対してじっくりと腰を据えて向き合うことは今回はあまりできなかったように思ったので、その点はもったいなかったかなと感じています。

次回以降もより一層面白い会を目指していきたいと思います。初めての方ももう一度の方も、是非足をお運びください。

 

今回は、第二回哲学対話カフェin Sapporoの議事録になります。今回も、テーマである「人生変わる、ってどういうこと?」に対する見解をまず発表してもらって、それからみんなで対話を開始する、という流れで行いました。そこで出た考えの一部を記録として書き残しておきたいと思います。

記事の最後にまた提題者としての感想なんかも載っけてあります。

 

 

************************

 

 

〇「人生変わらない」派

そもそも「人生が変わる」ことなんてないという考えが提示されました。その根拠はあまり議論されませんでしたが、おそらく、人生が一本道であるのは誰にとっても明らかなことなのに、それが「変わる」って言われることに違和感がある(A地点からB地点へ向かうのに、どこかで右折したからと言って「AからBへの道が変わった」とは言わないように)、というような共通理解があったのではないかと思います。一方で、人生が変わらないなんて考えても仕方がない、という意見もありました。

人生が変わらないとして、それでも何事かを選ぶ、主体的に引き受けるということは可能なのか、という話題にもなりました。最初に意見を発表してもらったときに、「自分が納得して決めたことに対して、行動に移す」ということが人生が変わることだという意見も出ていたので、主体性というのはこの問いを扱ううえで非常に重要なキータームだと感じました。

 

 

〇主観的な変化と客観的な変化

人生が変わるとして、どういうふうに変わるのか。大きなイベントなどに象徴されるような客観的な変化と、考え方や性格など内面的な部分の主観的な変化とがあるような区別が、明確に提示されたわけではないにしろ、なんとなく設けられていたような気がしました。ある大きな客観的な出来事はそれだけで「人生が変わる」ことだと言えるのか、それともそれが内面の変化を伴うからこそ「人生が変わる」出来事になるのか。客観的な出来事のなかには、考え方が「変わらざるを得ない状況」にさせるものもあるという点も指摘されていました。また、人生が変わるとは、「生き方(どう生きたらよいかの考え方)が変わる」ことだという意見も出ていました。いずれにせよ、この点についてはもっと多くのことが論じられる余地があったように思いました。

 

 

〇「解釈が変わる」のが人生が変わることか

あるイベントを、しばらくたってから思い返してみると、これまでとは違ったふうに見えることがあります。このような現象についても幾度か言及があったので、これは人生が変わるということなのか、はたまたこれは人生が変わることの証拠に過ぎないのか、それとも人生が変わることとはあんまり関係がないのか、など色々考えてしまいました。話のなかでは、人生が変わるということの一つの側面としてこの現象があるという認識がなされているようでした。

 

 

〇他人の人生

「人生が変わるってなに?」というテーマのもとでは、みんなつい自分の人生について考えてしまいがちですが、たとえば自伝なんかに載っている他人の人生も人生です。自分のではない人生についても目を配ると、新しい考えが浮かんでくるんじゃないかという話題になりました。自伝について話してくださった方は、自伝がみんな「同じに見える」と仰っていたのが興味深かったです。

 

 

ライフハックと、エンタメとしての「人生変わる」

片付けの仕方で人生が変わると主張する本があるようです。すごく売れているようです。あるいはライフハックなどの知恵も、ある意味で人生が変わるくらいのポテンシャルがあるのかもしれません。こういう文脈で言われる「人生が変わる」は、人の興味を引き付けるためのエンターテインメント要素の強い常套句のようなものではないかという考えも出されました。

 

 

〇人生ゲーム

参観者の方の一人が、人生を人生ゲームになぞらえて話をするシーンがありました。「人生が変わらないというのは、人生ゲームで出る目があらかじめ分かっているというようなものじゃないのか」というような議論や、人生ゲーム上でも過去のイベントに対して解釈が変わることがあるというような説明がなされました。

 

 

〇人生変わるって考えたほうが、面白い!

対話の最後に、一人ひとりからまとめの意見をもらうときに、二人の参加者から「変わると思ったほうが、人生は面白い/やる気が出る」という意見を頂きました。人生に対する考え方よりも、実際に生きることのほうが大事ですので、面白さややる気という部分に注目するのはとても大事なことだと思いました。

 

 

************************

 

 

多様なご意見をありがとうございました。

さて、提題者です。私は「人生は変わったりしない」という立場で対話に参加していました。比較的ひろく使われている「人生が変わる」という言葉の真実がどこにあるのか、というのが私の疑問だったのですが、追い求めていたものは現実の複雑さのなかに紛れて行ってしまいました。このような曖昧で、なのにリアルな言葉というのはもともとそういう性質のものだったはずなので、これでよかったという気持ちでおります。

私は、生活が思考をリードするものだと信じています。考えが生きることを導くのではない。それでも生きることについて考えるのは、役に立つとか立たないとかではなく、とても人間的なことだと思います。そのうえで、やはり考えたことのために生きるのではなく、生きることのために生きるのが大事なのだと思います。「人生が変わろうと変わるまいと、大事なのは今日を一生懸命生きることだ」という意見もありましたが、そういうことであろうと思うのです。

がんばっていきましょう。

 

f:id:DIALECTIQUE:20190903162247j:plain

 

 

第一回「自分との約束、守らなきゃダメ?」議事録

 

 

 

DIALECTIQUE札幌主催の白水です。

第一回「哲学対話カフェ in Sapporo」、無事終了いたしました。

当日参加のお二人を含め、総勢8名の方にご参加いただき、私たちとしてはよいスタートを切ることができたと感じております。日曜日の朝からご参加くださった皆様、本当にありがとうございました。今週もがんばりましょう。

 

f:id:DIALECTIQUE:20190804161436j:plain

会場はこんな感じでした

 

**********************

 

 

第一回のテーマは「自分との約束、守らなきゃダメ?」というものでした。

さまざまな論点がありましたが、ここに議事録としていくつか簡単にまとめておきます。

 

 

・「自分との約束」という言葉が曖昧。自分との約束って何を指すの?

具体的にはどういうものが自分との約束になるのか、それが分からないと守ったほうがいいかどうか答えようがないのではないか、という意見がありました。対話が進展するにつれていろんな「自分との約束」の側面が現れてきましたが、この言葉の曖昧さは最後まで残り続けました。

しかしそれは当たり前のことで、もともと曖昧な概念を整然とした形に作り替えることは少なくとも哲学対話の目的ではありません。曖昧さに分け入って、曖昧さを経験するというのが、言い換えれば「何を知らないかを知る」ことが、哲学対話的な営みだと思います。その結果、何になるのかということについては、哲学対話は何も保証しませんが、「何かになる」ことだけを追いかけるのが人生ではないという実感もまた哲学対話的だと私たちは思います。

 

・自分との約束というのは目標のことか?

自分との約束は、自分の人生の目標と似ているよね、という話になりました。しかし、自分との約束っていうのは目標のことだ、という意見は出なかったように思います。確かに似ている部分もありますが、目標というほどでもない約束もたくさん存在すると考えられます。

また、この話題と関連して、自分との約束は一体「誰と」約束しているのか、という話になり、未来の自分との約束なのではないかという考えが出ました。

 

・自分との約束に他人が絡んでくる場合

たとえばオペラで自分の役をしっかり務めようと思うとき、その意志は自分一人だけじゃなくて、オペラの共演者やスタッフ、お客さんなど、ほかの人にも影響を与えることがあります。このように、約束する相手は自分一人だけど、その結果は自分一人だけでは事が済まないという場合があります。また、このようなケースは、純粋に自分一人だけが関わるような約束のケースと道徳的に根本的な違いがあるのだろうか、というような話になりました。

 

・「長女としての在り方」

自分の立場にふさわしい振る舞いが求められる。これ自体はすべての社会的な状況で当て嵌まることですが、中には、本当は社会的には求められていないにもかかわらず、自分で知らず知らずのうちに「こういうふうに振る舞わなきゃ」と思ってしまっているという場合があります。今日いらっしゃった方の中には「長女たるものかくあるべし」と考えてしまって、長いこと自身を縛り付けてしまっていたという方がいらっしゃいました。これもある意味で「自分との約束」なのかも知れません。

 

・純粋に自分だけとする約束

他の参加者の方はもっと違った例を考えていて、たとえば「明日は哲学カフェに行く」とか「午後には病院の予約を入れる」とか、ほとんど自分だけがその結果に関わるような約束を中心に話してくださいました。このような自分だけが関わる自分との約束、あまりしたくないという方がちらほらいらっしゃるようでした。いったん約束しちゃったら守らなきゃいけない気持ちになって、またもし破ってしまったら、誰にも迷惑はかからないのに嫌な気分になってしまいます。これは結局、「約束は守らなきゃいけない」っていう考えが前提にあるからこのように考えるのですが、その「約束は守らなきゃいけない」という考えの奥にはさらに「同じ考え・趣味・関心を持ち続けていなければいけない」という考えがあるのでは、というちょっと入り組んだ話になりました。そして、考えや関心は変わっていくのが人間なので、自分との約束は破ってもいいんじゃない?という意見がやや多めの票を獲得したようです。

 

・楽しければいいのさ!

自分との約束がある意味でプレッシャーになるというネガティブな面があるのに対して、それを趣味的なものとして捉えて楽しく付き合うことができるという意見もありました。今日は最終的に「自分との約束はしない!」という決意を固められた方もいらっしゃいましたが、上手な付き合い方をすれば自分との約束は人生を楽しくしてくれるものなのかもしれません。

 

・約束を守るのはカッコいい?

自分との約束を守るのはカッコいいし、守らないのはなんだか美しくない、という美的な観点からの意見もありました。しかし実際には、すごく努力をしても自分との約束を果たせない場合というのもありますし、また大した労力もなしに約束を果たす場合もあります。このような場合、前者は充分にかっこよく、また後者は特別かっこいいということもないんじゃないかという話になり、「守ろうとする」過程あるいは姿勢が美しいのではないか、という点に落ち着きました。

 

 

**********************

 

 

提題者として振り返ります。一点だけ。

今回のテーマについてしゃべる中で、じゃあ「他人との約束」の場合は守らなきゃいけないのかどうか、というところに話を展開させたかったなぁと思いました。そりゃあんた守らなきゃいかんでしょ、と思うでしょうが、次のような関連があるのです。

自分との約束、それを破ったところで誰にも迷惑はかけないし自分にも損害はない、そういう約束ですら私たちは「なんとなく」破りたくない、守らなきゃいけないと感じます。この「なんとなく」な感じ、これは他人との約束においても共通している感覚ではないかと思うのです。この感じは、それが「約束だから」生まれているのではないでしょうか?私たちは他人との約束を破りたくないと思いますが、それはなぜでしょうか。破ったら他人に迷惑をかけるからとか、約束を守らないやつだと思われたくないからとか、いろいろあるでしょうが、同時に端的にそれが「約束だから」破りたくない、という気持ちもあるんじゃないかと思うのです。他人との約束でも、守らなかったからといって即座に相手に迷惑がかかるものばかりではありません。場合によっては、破っても全く損害を与えないような約束もあります。問題となるのは、「約束を破ることによって実際に不利益が生じるかどうか」ではなく、約束の破棄を私たちは必ずしも相手にかかる迷惑という観点から評価するわけではないということです。同じように、どんなふうに思われても構わないと思っている相手との約束でも、それが約束である限り、なんとなく破るのは気が引けるという感じがあるのではないでしょうか。約束を守らないやつだと思われても別に構わないのに、それでも何故か約束を破りたくない。結局、それが「約束だから」という理由で、なんとなくそれを守りたいような気持ちが生じるのではないかと思うのです。相手が他人であっても自分であっても。

もし、この「約束だから」という理由が効力をなくしたら、つまり自分との約束なんか別に守らなくてもいいんだと言うとしたら、それでも他人との約束は守らなきゃいけない、と言うことができるのか。今日は、そういう話の展望もありえたような、そんな気がしたのでした。

 

 

お読みいただきありがとうございました。今後ともDIALECTIQUE札幌をよろしくお願いいたします。